白薔薇の逢瀬〜Meeting you, in the holy night (with a white rose)3
 

「んんっ……」
 突然のことに望美はうめいた。反射的に腕をつっぱって離れようとしても、重衡は彼女を深く抱きしめて離そうとしない。それに不意打ちにもかかわらずキスはひどく甘くて、抵抗しようという気持ちを根こそぎ奪っていく。溶けるほどのめまいが押し寄せてきて、体から力が抜けそうになった。
 だが唇が離れるとどうしてもとがめる目を向けてしまう。一応ファーストキスだったのだ。
「重衡さん……!」
 非難をこめた口調と視線に、甘やかなキスを与えた当の本人は苦しげな息をついた。
「ご無礼を……いたしました。私をお責めになるのは当然。あなたの唇を穢した罪を購えとおっしゃるのなら、この命を差し上げてもかまいません」
「ちょっと待って!」
 真剣そのものの重衡に望美はあわてた。キスひとつで死ぬなんてとんでもない。それに望美だって決していやだったわけではないのだ。ただあまりにも急で……心構えもなくて……ものすごく驚いただけだ。
「命だなんて! おおげさだよ! そんな、別にいやだってわけじゃなくて……」
「……おいやではなかった、と?」
「う、うん……その、すごくびっくりしたけど」
 もぞもぞと身じろぎし、初めてだったしと小さく付け加える。それを聞いた重衡の顔にどこか満足気な色が浮かび、それでも彼は詫びる姿勢を崩さなかった。
「あなたの初めての口づけの相手とは身に余る光栄……。ですが、たいそう不遜なふるまいということは変わりなく、まことに申し訳ございません。
 ただ、ずっと焦がれていたあなたにこうしてお逢いできて、けれどあなたをこの手に留めておける時間は長くはないのだと思うと、どうしても自分を抑え切れなかった。あなたがとてもいとおしくて……先ほどからその桜色の唇に触れたくてたまらなかったのだと正直に申し上げたら、さらにお怒りをかってしまうでしょうか?」
 綺麗なすみれ色の瞳であなたが愛しいのですと懇願されるように告げられては、責める矛先もどうしても鈍ってしまう。もともと望美がこれまでどれほど重衡、そして銀に心惹かれてきたものか―――。
「ううん……そんなことはないけど……」
 望美は相手と目を合わせないようにしながらつぶやいた。視線を合わせたらそれだけで何もかもなしくずしに持っていかれそうだったからだ。
「ありがとうございます。……あなたの口づけは甘露のように私をうるおす。あなたのやわらかさに触れるだけで、私の命は新たな鼓動を刻み始める。私は何度でもあなたに口づけたい。夜が明けるまで―――ずっと」
「重衡さん!」
 望美はあせった。まさか本当に……。
「いえ、純なあなたに無体なことはいたしませんよ。でも……もう少しだけ、あなたの清らかな甘さを分けてはいただけませんか? あなたへの想いに身を焼く哀れな男に、どうかわずかな慈悲を―――」 
 自分の気持ちを見通されていると思いつつも、拒む言葉を探し出せない。それはきっと、彼が望美を本心から求めていること、そして心底彼女の意志を無視するようなふるまいは決してしない人間であることがわかっているからだ……。
 だからあごに指をかけられ、そっと持ち上げられても望美は逃げ出さなかった。胸を高鳴らせ、静かにまぶたを閉じる。
 ゆっくりと、彼女の反応を探るように触れてくる熱い唇の感触、熱のこもった吐息。小さくささやかれる言葉に従ってためらいながらも唇を開けば、すべりこんできた舌がそっと誘うように口の中で動く。経験のない感触に背をこわばらせた望美をなだめるように、重衡は静かに彼女の髪や背を撫でた。
 舌を絡められ口内をまさぐられていくにつれ、ざわめくような快感が体の奥から湧き上がってくる。自分の中にこんな感覚があったなんて……。 
 羞恥心も耳元に大きく聞こえる自分の鼓動も、全部どこかに押しやってしまうほどに甘美な刺激は圧倒的で、望美もいつしか夢中になった。
 時おり喉から甘い声をもらして従順に応えてくる少女に、青年は言い知れぬ喜びを覚えた。彼にとって望美は、凛とした神子であるよりもまず、初心で愛らしいひとりの女だった。身を預けてくる彼女をやさしく保護してやりたいと思うと同時に、すべてを奪い取り自分だけのものにしてしまいたいという支配欲が心の中でせめぎあう。
 しかし性急にことを運ぶつもりはなかった。こうして口づけを交わすことがどれほど気持ちよく、互いの存在を深く感じさせるものか教えこむかのように彼はキスを続けた。
 ようやく唇を離すと、瞳をうるませ、頬や目元を染める望美の初々しくも艶めかしいさまが目を楽しませてくれる。色づき濡れた彼女の口元を指先で撫でれば、息を呑んで頬の赤みがさらに増す。そんな彼女がかわいらしくてたまらない。
「この唇を知っているのは私だけなのですね。もう私以外の人に同じことをさせてはいけませんよ―――」
 そう言いながら、もう一度短く口づける。もっと先へと進みたいのはやまやまだったし、つたない抵抗など簡単に堕とすことができるのはわかっていたが、彼女を愛しく思う気持ちがかえって彼を押し留めた。
「ああ、これ以上は自分が止められなくなってしまいそうだ。最初のお約束どおり、お話を聞かせていただくことにした方がよさそうですね」
 情熱的なキスのあとのこととて、しばらく望美も落ち着かなかったが、重衡が運んできた飲み物を手にゆったりとソファに腰かけると、隣に寄り添う彼の聞き上手なのとあいまって、彼女は自分が初めて龍神に召喚された時から源平の和議に至るまでの経過や、和議の場から茶吉尼天を追って八葉たちと一緒に現代に来たこと、茶吉尼天を倒しはしたものの、あちらの時代に帰る方法が見つからないことなどを、かなりおおまかにではあるが、順々に話していた。
 重衡は時おりおだやかにあいづちを打ちながら望美の話に耳を傾けていたが、逆鱗を使っての時空跳躍、過去の六波羅で重衡と会ったのがその力を行使してのことであったのには、さすがに驚きを隠せない様子になった。
「白龍の逆鱗……あなたがそのような力をお持ちだったとは……。確かにそれは、まさしく神の御業に違いありません」
 ただ、重衡のあり得たひとつの未来である銀の存在については、望美は十分に話せたとは思わない。先ほども感じたのだが、どうしても何かぽっかりと抜け落ちているような気がして……。
 逃避行の道中で出会った銀に導かれて平泉に入ったこと、そこで過ごした日々。鎌倉方との激しい戦いの中、銀の心と引き換えに、ようやく打ち破れた茶吉尼天の呪詛。
 覚えている。覚えているのに、愛していると繰り返した銀の姿さえ、何だかぼんやりしてはっきりしない。重衡とこうして話すことがなかったら、忘れていたことにすら気がつかなかったかもしれない。何よりも貴重な思い出、手放したくない大切な記憶だというのに……。
 もどかしげに唇をかむ望美に、重衡はやさしく言った。
「無理をなさらなくてもよいのですよ。記憶は川を流れる草の葉の船のようなもの。いっとき水に沈んでも、いずれまた水面に顔を出すこともあるでしょう。
 それに私は少し嫉妬しているのです。『銀』という男に」
「重衡さん!」
「あなたと数々の思い出を重ね、あなたの心をこれほどまでに捉えてしまった『銀』に。あなたが『銀』との日々を、これ以上思い出さなくてもいいと思えるほどに……」
 あきらめとも憂いともつかぬ言葉が吐かれた。
「もうひとりの自分に嫉妬してもせんないこととわかってはおりますが―――」
 重衡にとって『銀』とは、あくまで見知らぬ男。決して彼自身ではないのだ……。
「あ、ごめんなさい……」
「いいえ、よいのですよ。あなたと彼との話をうかがいたいのは本当なのですから」
 思わずあやまる望美の頬をそっと撫でつつも、彼がひそかな決意をしていること―――『銀』との思い出がどれほどのものであろうとも、過去の記憶などすべて色褪せるほどに、これからこの『私』を刻みつけてさしあげますから―――などと考えていようとは、望美は想像だにしていない。
 もし仮に知ったなら、平泉で銀が彼女に向けたいちずな想いは、確かに彼が生来持ち合わせている情の深さ、激しさなのだと納得できただろうけれど……。
 望美はまた、ようやく自分の本名を伝えた。これまで彼女は重衡にとっては「十六夜の君」以外の名を持たなかったのだ。
「望美……。うるわしく満ちた月の名はまさにあなたにふさわしいですね。望美様、とお呼びしてよろしいですか?」
「あっ、いえその、できれば望美『さん』でお願いします。様づけで呼ばれるのは、ちょっと」
 望美は恐縮した。明らかに年上の彼から望美様などと呼ばれたら周囲から奇異の目で見られてしまう。
尊いお方を同列にお呼びするのは恐れ多いことですと言いつつも、重衡はとりあえず望美の希望を受け入れた。
「では、望美さん」
「は、はい……」
 しかし望美が答える声は小さい。重衡は普通に呼んでいるだけなのだろうが、彼の甘い声には自然の艶があって、名を呼ばれるとそれだけで耳元でささやかれているようで、くすぐったくて恥ずかしい。慣れるにはもう少し時間がかかりそうだった。


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